クラ吹きのみゆう

クラリネット奏者としてのプロフィールを書いていなかったことに気がついた。

書くことは、あまりない。だから、書いていなかったとも言える。

でも、そうなると、なんだたいしたことないじゃないかと思われるのも癪なので(というフリをする。)、それらしいこともちょっとは書いておこうと思う。

鳥取県岩美町田後という、漁村に生まれ育った。泳ぐか、走るか、ケンカするか、そんな時代に生まれた。音楽の英才教育は受けていない。演歌好きの漁師のオジさんたちには、囲まれていた。2歳年上の兄がいたので、いつもダボダボのお下がりの服を着ていた。そのことに何の疑問も抱かずに自然の中にいた。

こんなふうに書いてしまうと、プロフィールとは全く関係ない話が進みそうで、ちょっと心配だ。話の脱線はいつも得意だ。

中学校に進学した時に、走るのが得意だったので、陸上部を探した。放課後、走っている1学年上の先輩を見つけて、声をかけたら、吹奏楽部だった。陸上部は部員が足りなくて、前の年に廃部になっていたと聞き、そのまま吹奏楽部に入った。吹奏楽部も走るんだと知り、楽しそうだと思った。

希望する楽器を尋ねられて、ヴァイオリンというと、ないと言われた。トランペットというと、間に合ってると言われた。ピッコロというフルートの半分くらいの横笛を吹かされたが、音にならなかった。次にメロフォンというホルンに似た巻き貝のような楽器を吹いたが、かなり苦労した。

ある日、クラリネットに空きができたと言われ、吹いたら、すんなり音が出た。クラリネットの練習場からは女子テニス部のコートが見えたので、この楽器が気に入った。

女子テニス部のお陰でクラリネットの腕も上達が進み、音楽教育で有名な県外の高校の推薦を受けたが、鳥取市内の普通高校の名物先生に興味があったので、そこに進学した。音大受験を目指したが、親が駄目だと言うので、受験をすっ飛ばして上京した(家出みたいなもの)。

東京では住み込みで新聞配達をしながら、石原プロが経営する専門学校に通った。「太陽にほえろ」のエキストラ(列車の乗客)をやったり、「大都会パートⅢ」のロケ見学なんかもした。裕次郎さんとも直接話をしたのに、まったく内容を覚えていない。

週末は、未成年にもかかわらず、パブで生バンドでクラリネットを吹いた。まだカラオケはハチトラ(8トラック)が主流で、そんなに普及していなかった時代。「お兄さん、ちょっとだけ。」と言われてウイスキーの入ったコークハイを演奏の合間に飲んだ。1970年代。時効ですよね。

おお、この調子で書いていくと長くなりそうだ。すっ飛ばして読んでください。

音楽から離れた暗黒の数年を飛ばす。ビューン。

20代半ば、ジャズを学ぼうと、杉並の飯田ジャズスクールに入る。

ここで、師匠である世界的ジャズピアニストの田村翼(たむらよく)氏に出会う。この他にいろいろ教えていただいたのは、ベースの飯田龍夫前校長、ピアノの飯田敏彦現校長、サックスの押谷理さん、ブルーコーツの木村勉三さんなど。ここには、当時、今はたくさんのボーカリストを育成されておられる後藤芳子さんもおられた。

月1、2回くらいのペースで、ライブハウスやレストラン、ディスコなど、新宿、六本木などで演奏でき、めっちゃ幸せで楽しい数年だった。田舎で父親が倒れたと一報が入っても、それから2年くらいは、そのまま東京にいた。帰れなかった。

しぶしぶ鳥取に帰った。東京のバンドが解散し、勤めていた会社の重役が病気で倒れ、責任ある役職を勧められたのを断ったのがきっかけだった。

鳥取では市民吹奏楽団に入った。その後をかなりはしょって、今はフリーだ。っていうか、今はメインはオカリーナ奏者かな。クラリネットは好きだ。もっと吹こうかな。

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